内積の本質

この記事は 日曜数学 Advent Calendar 2015の 9日目の記事です。(8日目:「3の100乗を19で割ったあまりは?」を4通りの方法で計算する )

フーリエ解析は非常に話題に富む数学のトピックである.そのため様々なフーリエ解析の本が本屋に売られ,またインターネット上にもたくさんの解説が存在している.面白いのは,これらの解説の仕方には多様性があるということである.あるものは実際に高調波を合成して望みの波形に近似させる様子を見せたり,またあるものは最小二乗法の観点からフーリエ解析を述べている.これらフーリエ解析の解説書はまさにその著者のフーリエ解析の理解の仕方を表しているのだろう.

私はというと内積を関数に拡張してフーリエ級数展開を説明するというやり方が好きである.それまで幾何学的な意味しかわからなかったベクトルの内積が関数にも定義され,しかもそれが大いに効果を発揮するというところに内積の本質を感じたからである.今日はフーリエ解析の話と絡めて内積について語ろうと思う.


私が人にフーリエ解析を教えるときは,まず次のような問題を出す:

 \begin{pmatrix} 4 \\ 1 \\ -2 \\ 3 \end{pmatrix} = a_1 \begin{pmatrix} 1/2 \\ 1/2 \\ 1/2 \\ 1/2 \end{pmatrix} + a_2 \begin{pmatrix} 1/2 \\ 1/2 \\ -1/2 \\ -1/2 \end{pmatrix} + a_3 \begin{pmatrix} 1/2 \\ -1/2 \\ 1/2 \\ -1/2 \end{pmatrix} + a_4 \begin{pmatrix} 1/2 \\ -1/2 \\ -1/2 \\ 1/2 \end{pmatrix}
 a_1, a_2, a_3, a_4は何でしょう?

まあただの連立方程式とみなせるので地道にやれば求まるのだが,それがわざわざしたいことではない.注意すべきべきは,右辺のベクトルを順に \mathbf{x}_1, \mathbf{x}_2, \mathbf{x}_3, \mathbf{x}_4としたとき,これらが正規直交系になっていることである.つまり,これら4つのベクトルから異なるもの2つ \mathbf{x}_i, \mathbf{x}_jを取ってくると,その内積 \langle \mathbf{x}_i, \mathbf{x}_j \rangle = 0となり,また同じベクトル同士の内積は全て1になっているのである.この性質を利用し,問題の式の両辺に \mathbf{x}_1との内積をとってみると,
 \langle \begin{pmatrix} 4 \\ 1 \\ -2 \\ 3 \end{pmatrix}, \mathbf{x}_1 \rangle = a_1 \langle \mathbf{x}_1, \mathbf{x}_1 \rangle + a_2 \langle \mathbf{x}_2, \mathbf{x}_1 \rangle + a_3 \langle \mathbf{x}_3, \mathbf{x}_1 \rangle + a_4 \langle \mathbf{x}_4, \mathbf{x}_1 \rangle = a_1
となって, a_1 = \langle (4, 1, -2, 3)^T, (1/2, 1/2, 1/2, 1/2)^T \rangle = 3{}^Tは転置を表す)というふうにa_1が求まる.残りについてもベクトル (4, 1, -2, 3)^T \mathbf{x}_2, \mathbf{x}_3, \mathbf{x}_4との内積をとることで求めることができる.


フーリエ級数展開において各係数を求めるというのも全く同じようなものである.まず問題としては,区間 [ 0, 2\pi ] で定義された関数 f(t)が,
 f(t) = a_0 + a_1 \cos t + b_1 \sin t + a_2 \cos 2t + b_2 \sin 2t + \cdots
というように書き表せるとき, a_0, a_1, b_1, a_2, b_2, ...は何かということである.
先の例でいう \mathbf{x}_1, \mathbf{x}_2, \mathbf{x}_3, \mathbf{x}_4に対応するものは定数関数1および三角関数となっている.これらに内積的なものがあって正規直交基底的なものになっていればベクトルの場合と同じ方針で解くことができる.さて,「内積的なもの」とは何か.


実は数学でいうと内積は,何か線型空間 Xで定義された実数値あるいは複素数値の2変数関数\langle x, y \rangleであって,以下の条件を満たすものと定義される:
1. \langle x, x \rangle \ge 0であって,
   \langle x, x \rangle = 0 \Leftrightarrow x = 0
2. \langle \lambda x + \mu y , z \rangle = \lambda \langle x, z \rangle + \mu \langle y, z \rangle(線型性)
3. \langle x, y \rangle = \overline{ \langle y, x \rangle }複素共役

ベクトルの内積は当然これを満たす.「関数にも内積的なものがあれば」というのは,関数2つに対してある値を定める方法で,これら3条件を満たすようなものがあればいいということである.そこで,関数 f(x), g(x)に対してこういう値への対応を考えてみよう:
 \langle f, g \rangle = \int_0^{2\pi} f(x)\overline{g(x)} dx
すると,これが上の条件1,2,3を満たすことが確認できるだろう.なので,数学的にはもうこれを「内積」と呼んでも構わないのである.

これで関数に内積が定義できた.次に考えるべくは定数関数1および三角関数 \cos t, \sin t, \cos 2t, \sin 2t, ...が正規直交系を成しているかである.手始めに定数関数と \sin ntとの内積を取ってみよう.
 \langle 1, \sin nt \rangle = \int_0^{2\pi} \sin nt dt = 0
 \cos ntとでも同様の結果になる.つまり,この内積でいうと定数関数と三角関数は直交している.次に,三角関数同士の内積であるが,異なる自然数 n, mについて,
 \langle \cos nt, \cos mt \rangle = \int_0^{2\pi} \cos nt \cos mt dt = 0
 \langle \sin nt, \sin mt \rangle = \int_0^{2\pi} \sin nt \sin mt dt = 0
となることが高校程度の数学で確認できる.また,任意の自然数 n, mについて
 \langle \cos nt, \sin mt \rangle = \int_0^{2\pi} \cos nt \sin mt dt = 0
となる.つまり,三角関数同士も直交している.では,「正規直交系」の「正規」(ここでいう自身との内積が1)についてはどうだろうか?計算してみると,
 \langle 1, 1 \rangle = \int_0^{2\pi} dt = 2\pi
 \langle \cos nt, \cos nt \rangle = \int_0^{2\pi} \cos^2 nt dt = \pi
 \langle \sin nt, \sin nt \rangle = \int_0^{2\pi} \sin^2 nt dt = \pi
となって全然1ではない.だが,正規化は係数をいじくれば何とかなる.定数関数については 1の代わりに 1/\sqrt{2}を使うことにすれば
 \langle 1/\sqrt{2}, 1/\sqrt{2} \rangle = \int_0^{2\pi} \frac{1}{2}dt = \pi
となる.ここで,内積の定義を
 \langle f, g \rangle = \frac{1}{\pi}\int_0^{2\pi} f(x)\overline{g(x)} dx
というふうに書き換えよう.内積の条件はこれでも満たされるのでこれも内積と呼んで問題ない.こうすれば
 \langle 1/\sqrt{2}, 1/\sqrt{2} \rangle = 1
 \langle \cos nt, \cos nt \rangle = 1
 \langle \sin nt, \sin nt \rangle = 1
となって正規化される.


フーリエ級数の問題に戻ると,問題は
 f(t) = a_0 + a_1 \cos t + b_1 \sin t + a_2 \cos 2t + b_2 \sin 2t + \cdots
 a_0, a_1, b_1, a_2, b_2, ...を求めるということであった.上で定数関数として 1の代わりに 1/\sqrt{2}を使ったので, a'_0 = \sqrt{2} a_0として
 f(t) = \frac{a'_0}{\sqrt{2}} + a_1 \cos t + b_1 \sin t + a_2 \cos 2t + b_2 \sin 2t + \cdots
と書き換えておこう.さて,準備はそろったのであとはベクトルの問題と同様にやればよい.
 a_0 = \frac{a'_0}{\sqrt{2}} = \frac{1}{\sqrt{2}} \langle f(t), 1/\sqrt{2} \rangle = \frac{1}{2\pi}\int_0^{2\pi} f(t) dt
 a_n = \langle f(t), \cos nt \rangle = \frac{1}{\pi} \int_0^{2\pi} f(t) \cos nt dt \quad (n \in \mathbb{N})
 b_n = \langle f(t), \sin nt \rangle = \frac{1}{\pi} \int_0^{2\pi} f(t) \sin nt dt \quad (n \in \mathbb{N})
こうして教科書に載っているフーリエ級数展開の公式が得られる.


以上の流れを見るとむしろ三角関数 \cos nt, \sin ntが現れたことが唐突に思える.この議論で必要だったのは結局いい感じの内積とそれに対応するいい感じの正規直交系である.その正規直交系としてここで三角関数が選ばれた理由は特にない.なので,別の正規直交系を選んでくることも可能であり,例えばルジャンドル多項式系という多項式の系列で同様に級数展開することも可能である.このように一般的な正規直交系を成す関数系を用いた級数展開を一般フーリエ級数展開という.


元はといえば,ベクトルの問題からスタートしたのであった.そしてその内積の本質を3つの条件として抜き出し,他の対象にも応用すると,議論の対象が異なるにもかかわらず同じ方針で問題が解けるようになる.なんと素晴らしい再利用システムであろうか.